interview

インタビュー

カスタムカルチャーの先駆けとして、またカリフォルニアのライフスタイルの拠点としておなじみのムーンアイズ。今回はこのアメリカンカルチャーのアイコン的ブランドを経営する菅沼繁博氏に、スポンサーの立場からのボンネビルについて話を伺った。現地に何度も訪れレースを見守ってきた菅沼氏ならではの、深く広い視点に注目したい。

初めて訪れたボンネビル、
そのスケールの大きさに感動

ボンネビル・ソルトフラッツ(以下ボンネビル)に初めて行ったのは89年。スピードウィークに出ている車のスポンサーをしていたので。「こんな場所が世の中にはあるんだ」って、まずその自然のスケールにびっくりしました。真夏なのにスキー場みたいな真っ白な景色が広がっている。しかも地平線が見渡せるような、真っ平らな場所が現れるんですから。行けば、感動しますよ。普通の生活をしていたら、まず出会うことのない環境だから。ぜひ行かれたらと思います。89年に行って、それから90年から95年くらいまでは毎年行ってましたね。最近は残念ながら行ってないんですよ。雨で2014年、15年は中止でしたが、2016年は行きました。今年も行きたいと思っています。また、地面の塩が足りないから募金を集めて、他から塩を持ってきてるって聞いていたので、10年くらい前からかな、たいした金額じゃないですが、僕らもムーンのTシャツの売上げの一部をSAVE THE SALTに寄付しています。ずっとこの問題は気にしていましたけど、2000年に入ってから世界的に天候の不順からか状態が悪く、問題が深刻化しているらしいですね。  

スポンサーという立場から見た
ボンネビルの魅力

この商売をしていなければボンネビルに毎年行くなんてなかっただろうなと思います。楽しいことばっかりではないけれども、好きなことを続けていると楽しいこともいっぱいある。そういう環境を自分で作り、そこにいられる幸せを感じています。また、200マイル以上のスピードを出せた人だけが入会できる200マイルクラブのサポートもしています。スポンサードの魅力について言えば、ひとつはそのレースに関係できるということ。一般的な観客とは違う立場で一歩なかに入っていける。スポンサーとしてロゴを入れ、記録を出せば評価してもらえる。もともとフレッド・ラーセンというレーサーは1950年代からうちで働いていたのですが、96年に307マイルでFIAレコードを記録しています。1940年代から2000年代、死ぬまで次々に記録を作り続けたんです。僕らはその彼をずっとスポンサードしていました

長い歴史を持つボンネビルについて
僕らはほんの少ししか知らない

一番印象に残っているのはこのウェンドーバーの街であのエノラ・ゲイが訓練を行っていたということ。以前はこういうことをそんなに語る感じじゃなかったし、現地にも小さなモニュメントがあったくらい。90年代に行ったとき、雨が降ってレースが中止になって時間ができたのでバーベキューでもしようかと公園を歩いていたら、そのモニュメントを見つけて驚いた覚えがあります。当時はレースの車検場がその空港の跡地にあり、廃屋ですが倉庫なども残っていたんですよ。いま街には大きな博物館が建っています。あとは車でカジノの方から走っていくと左側に大きな大きな岩山があるんですよ。あの岩山にいろんな人の名前が彫ってあるんです。もちろんフレッド・ラーセンの”Larsen”も今でも見られますよ。50年代に岩山によじ登って名前を彫ったと聞きました。一部は壊されたけど、街側の方の旧道沿いにはまだ残っていると思います。ここはレースの歴史が長いですから。僕らはその中のほんの少ししか知らないわけです。

一年に一回だけという
希少なチャンスにかける難しさ

MOONEYES USAの社長が出場している8月のスピードウィークも、この写真集で取り上げるモーターサイクルスピードトライアルズも一年に一回。出場者で年配の方もたくさんいらっしゃるから、この前のように何回かキャンセルになると、その間に亡くなられる方もいます。僕らがスポンサードしていたフレッド・ラーセンも80代まで走っていました。そういった方たちが一年に一回、いろんなことを考えて記録をめざしてチャレンジする。でも一年に一回しかない。僕らもここで車を走らせるときは風洞実験とかさまざまに準備してきますが、それはもう机上の計算であって。地面の塩の硬さとか風の向きとかで全然変わってくる、自然との勝負でもあります。一週間のうち、一日で2回か3回走れればいい、このスピードウィークは。納得のいく記録が出ないと毎日修理しながら最終日までいる人もいる。本当にライフワークみたいな感覚ですよね。賞金が懸かってるわけじゃないし、あくまで自分のためにやるという。僕も出てみたいとは思うんですが、猛スピードで長い距離を走るのがおっかないからここはアメリカの社長に任せて、僕はドラッグレースに出ています。ドラッグレースの方はクォーターマイルだから、一回息を止めればそのまま行ける、9秒くらいでしょ。でもこれは何マイルも走るから生きた心地がしない。だからできないですね(笑)。

観客の楽しみを優先する
アメリカと、日本の違い

ボンネビルについて言えば、90年代は日本から多くの車が参加しました。最近はオードバイの方の方が多いかな?僕らの若い頃はまさか車やバイクを持っていってボンネビルを走るなんて頭がなかった。僕らの場合は憧れから始まって長い時間をかけてやっとここまでたどり着いたという感じ。90年代日本チームの日本車が立て続けに記録を出して活躍する場面も多かったけど、ほとんどのチームが記録を立てるともうやって来ない。できれば続けて参戦して欲しいですね。この場所はやはりアメリカであって、長い歴史のなか、アメリカのモータースポーツならではの世界観で成り立っています。とはいえ、彼らはいつもウェルカムな姿勢で迎えてくれますし、お邪魔するこちらも態度をわきまえていれば、とても友好的に接してくれます。みんないい人たちですよ。ここはピットと客席に境目が無いから、いろんな人たちと仲間になれる。お昼になったら、一緒にバーベキューしたり。アメリカのレースはピットを囲わないところが多くて、一般の人でもピットに入れる(レースによってはピットパスを買えば入ってOK)。ボンネビルは開放的な場所ですからピットをゆっくり見て回りレーサーたちとも友だちになれる距離感が良いと思います。ただ日差しが強いので日焼けには注意。想像してみてください。真夏の炎天下、真っ白な塩の上に居るのです。日焼け対策は入念にしてください。

変わらない広大な景色を
写真集にするという難しさ

ボンネビルの写真集を作るってなかなか難しいことだと思います。蛇足ですが、初めてボンネビルを訪れた人は良い写真を撮るんですよ。僕も最初行ったときは感動してたくさん写真を撮りました。撮った写真をコラージュしてカレンダーを作ったりして。うちの社員を出張で行かした時も、みんな良い写真を撮ってくるので、ポスターを作らせています。でも、これ1945年の景色だよって言っても成り立つくらい、山と地平がある景色は同じでずっと変わらない。どこから撮っても同じ印象になってしまう。要は撮るほうも見るほうも馴れてきて、飽きてしまうんですよ。でも増井さんはプロとしていろんなテクニックと情熱を持って見せてくれると思うので、そこがとても楽しみですね。

SHIGE SUGANUMA / 菅沼 繁博
1955年横浜生まれ。日本で空前のアメリカブームが訪れた1970年代に青春を過ごしアメリカ車とカスタムカルチャーの虜に。20代にカリフォルニアで見たカーレースに衝撃を受ける。ディーン・ムーンが創設した自動車パーツブランド「MOONEYES」を83年に日本に上陸させ、86年に横浜元町にショップをオープン。ディーン・ムーンの死後、92年にMOONEYES USAのCEOに就任。現在では日本とアメリカを頻繁に行き来しながら、日米の会社を経営。ムーンオブジャパン株式会社代表取締役社長として、独自のカスタムカービジネスを手掛ける。
http://www.mooneyes.co.jp/